当寺は南北朝時代の貞治5(1366)年、元章希本(げんしょうきほん)和尚よって創建されたと言われています。古くは「清高寺(せいごじ)」と称し、その後、曹洞宗「長泉寺」となりました。 安土桃山時代の天正10(1582)年には、木曾義昌と武田勝頼の鳥居峠の戦いにおいて建物が焼失。文禄元年(1592年)に再建されましたが、江戸後期にあった奈良井の天保の大火事で再び焼失するなど、移転や火災を繰り返し、数度再建されています。現在の本堂は幕末の慶応2(1866)年に建てられたものです。 山門は、元々は奈良井宿の本陣のものでした。火災で本陣は焼失しましたが、正門が残され、その後当寺の山門として移築されました。切妻や銅板葺、一間一戸、薬医門は大火事を免れた貴重な遺構となっています。
本堂の「龍の大天井絵」は、明治時代になってから飛騨の匠・山口権之正(やまぐちごんのかみ)が描いたものです。“正”は“かみ”と読み、飛騨の匠の優れた棟梁に許された官名です。このほかにも、山口権之正は長野県内に数多くの作品を残しています。
天井絵の大きさは長さ約20m、幅3.5m。龍は仏法護持の神将であり、修行僧を見守るといわれています。また、水の神様でもあり、火災から建物を守るという意味も持っています。昭和期後半までは「鳴き龍」と呼ばれ、龍の目の真下で手を叩くと目の中の仕掛けが反響して独特な音が聞こえていました。しかし現在は、建物全体の老朽化のためか残念ながら音が響くことがなくなってしまいました。
本堂窓際の天井から下がっている駕篭(かご)は江戸時代末期に実際に使用されていたものです。薩摩藩の武士・福崎七之丞が乗っていました。福崎は薩摩藩主島津斉彬の側近でしたが、嘉永6(1853)年、江戸から薩摩藩へ向かう大名行列の先触れの際、奈良井へ滞在中に病死し、当寺に埋葬されました。
江戸時代、幕府が将軍御用の京都宇治茶を茶壺に詰め、江戸城まで運ぶ行列を「お茶壺道中」、または「宇治茶壼道中」といいました。寛永10(1633)年、3代将軍家光の時代に制度化され、幕末まで続けられたこの行列は、将軍の権威を知らしめるための行列でした。“将軍御用”という絶対的な権威が与えられ、いかなる大名であろうとも茶壺道中に出会えば道の端に控えてこの行列を優先させることになっていました。
宇治を出発した一行は中山道を通り、奈良井宿ではこの長泉寺を宿泊所としていました。寺には「御茶壺道中の際には御宿(※)とすること」という記録が残っており、御宿は寺の仕事の一つでした。行列が通る街道は農繁期であっても田畑の仕事を禁止され、子供の戸口の出入りや煮炊きの煙も許されませんでした。沿道の庶民は権威のあるこの行列を恐れ、茶壺の行列が来たら戸をぴっしゃんと閉めて家に閉じこもりました。その様子は童謡の「ずいずいずっころばし」に表現されています。
当寺には江戸時代に運ばれた御茶壺の実物が現存しています。それが旅の途中の不慮の事故への控えなのか、毎年御宿とする寺への礼なのかははっきりと分かりません。
毎年6月に行われる奈良井宿場祭の最終日には、正午より御茶壺道中を再現した行列がこの長泉寺より出発し、奈良井宿場内を一巡します。
※宿泊する人を敬って宿所を提供すること
武蔵の国の豪族だった藤田能登守信吉(ふじたのとのかみのぶよし)は、戦国の世の習いで北条家、武田家、上杉家と主君を変え、最後に徳川大名となった武将です。
北条氏の下で沼田城代を務めていましたが、身内が北条氏の陰謀によるものと思われる謎の死を遂げたことなどから、真田正幸の調略を受け入れて沼田城を明け渡し、武田勝頼に仕えるようになりました。そして、武田家の通字である「信」を与えられ、武田信玄の孫娘を妻に迎えます。
天正10(1582)年、武田勝頼と木曾義昌との鳥居峠での戦いでは、奈良井にも戦火が及び、長泉寺は焼失します。長泉寺住職器外聞應(きがいもんのう)大和尚への帰依があつかった信吉は、後に寺の伽藍(がらん)を再興。中興開基となりました。
武田家滅亡後は、越後の上杉家に仕えてさまざまな戦で活躍し、上杉家中の序列では直江兼続以下5番目に位置していました。豊臣秀吉の没後、徳川家康の独走が目立つようになりますが、上杉景勝と直江兼続はあくまで亡き秀吉の知遇に報いる心を変えず、家康に抵抗する意志を示します。
慶長5(1600)年正月、景勝の代理で信吉は大阪に上り、豊臣秀頼と徳川家康に新年の挨拶をしています。その際、家康は「景勝に上洛し共に国事を議すべきであると伝えよ」と言ったとされます。無用な戦を避けて民を守るため、そして上杉家を守るために、信吉は徳川との融和を勧めましたが、景勝と兼続は戦強行路線を貫きます。この頃、和平路線の信吉への風当たりは強くなり、上杉軍団の先鋒から外されます。さらに、兼続に命を狙われているという噂が流れたため「上杉家に二心のない旨」の起請文を残し、一族郎党を連れて会津を出奔。その後、京都の大徳寺で剃髪をし、蟄居しました。
関ヶ原の合戦のきっかけとなった会津征伐の際には、家康に道案内を命じられますが、「上杉家に二心なし」と同道を辞しました。後に家康から徳川に仕えるよう再三声がかかり、根負けした信吉はこれに応じて下野西方潘1万5千石の大名となります。家康は信吉が持っていた武田、真田、上杉との縁戚関係に利用価値を見出し、また、戦術家・築城家としての能力を買っていたといわれています。
大阪冬の陣、夏の陣に出陣し、夏の陣では大きな痛手を負ったため、幕府にいとまを請い信州諏訪温泉で湯治します。しかし、傷は思いのほか重く、奈良井の長泉寺で最期を迎えて寺に葬られました。信吉の法名は「直指院殿一曳源心居士」。自身の苗字である「藤田」を代々名乗るよう、寺の住職に遺言を残したため、長泉寺に入った住職たちは明治になるまで藤田姓を名乗っていました。
※参考資料「当寺古文書/他」「藤田能登守信吉(志村平治 著/総合出版社 歴研)」「北上氏邦と武蔵藤田氏(黒田基樹・朝倉直美 編/岩田書院)」「上杉氏年表(池享・矢田俊文 編/高志書院)」
江戸時代、「高遠石工(たかとおいしく)」と呼ばれ、全国的に有名だった高遠藩(現・伊那市)の石工は、優れた腕を持ち各地に出向いてはさまざまな石造物を作りました。
その中でも、稀代の名工と呼ばれたのが守屋貞治(1765〜1832年)です。貞治の作品は県内各地にあり、生涯において300体以上の作品を残しています。長泉寺の貞治仏の台座には「藤屋源吉建之(藤屋源吉これを建つ)文化八辛未壬」と刻まれており、木曽谷随一の美しいお姿といわれています。